癒しの離島でヨガ資格
 

ヨーガスートラ1-51

1-51 tasyāpi nirodhe sarvanirodhānnirvījaḥ samādhiḥ
तस्यापि निरोधे सर्वनिरोधान्निर्वीजः समाधिः॥५१॥
それを確かに止めてしまった時、全ての解消から無種子三昧
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真智の作用をも終止すると、その分別の記憶を抑止する行も止まり心の作用すべてが止まる。この場合の止滅は離欲によってなされる。
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私たちが日ごろ感じ取りやすい『自分』という存在は、身体であったり心であったりします。ただ、そのどちらも変わりゆくものであり創造性の高い存在です。

永遠である本当の自分とは何か、その変わらない純粋なものに気づくことから始まります。

まずは気づき、そして知るのですが、その知識すら手放すことが求められます。
自分を知るために、周りに投影して比較して感じ取る現象すら放棄します。

純粋な存在、本当の私に出会うには全ての行を手放す必要があるのです。
そこからは、揺るぎない至福と自由に安らぐ状態が訪れるのでしょう。

 

 

 

 

 

ヨーガスートラ1-50

1-50 tajjaḥ saṁskāro’nyasaṁskārapratibandhī
तज्जः संस्कारोऽन्यसंस्कारप्रतिबन्धी॥५०॥
それから生じるサンスカーラは他の記憶を抑止する
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サンスカーラとは色々な経験が潜在意識に残す刻印、残存印象。
何かをきっかけに顕在意識に現れ、心を通して煩悩や感情の種となる。
直観智から生じるサンスカーラsaṁskāra संस्कारः は他の記憶の出現を抑圧し現実に現れるのを抑止する。
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本当の自分、真実、正しい知識に気づく機会は有っても、これまで蓄積した固定観念から抜け出すのは容易ではありません。少しずつ固定観念や悪い癖を手放す練習をすると、その練習を繰り返した記憶が蓄積され、癖がつき、流れが変わり、次に繋がる練習が易しくなるのです。

良い習慣を取り入れ『自分』という意識を手放す努力は、向かい風のように感じて最初は強い負荷がかかります。
でも風に乗れたら早いのかもしれません。

 

ヨーガスートラ1-49

1-49 śrutānumānaprajñābhyāmanyaviṣayā viśeṣārthatvāt
श्रुतानुमानप्रज्ञाभ्यामन्यविषया विशेषार्थत्वात्॥४९॥
伝承や推理の智とは違う領域で格別な意義故
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この直観智は伝承や推理などの知識とは異なる直接の体験でのみ得られる違う領域のものである。

1-49では三昧の境地で現れる直観智を対象の面から傾向や性質を分けている。

この直観に於いてはārtha 自己、セルフ、見る者、が独立し鮮明な姿を輝かせ顕現する。事象の特殊性を対象としている。しかし伝承や推理は、認識するための手段として普遍的な知性が残るため、自己と分別していて直観智とは異なっている。
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教わったことも自らの推測も手放した後に体験する純粋な境地。執着のない姿を想像します。
知っていると思っていることも幾度かの体験も、全ての一部でしかなく部分的に気づいただけに過ぎないのです。
ここでの真理は他者との比較や対立があるような領域ではなく、自分という心身の枠の無い格別な意義を持った智です。

自ら輝くのみ。とても自由な存在です。

 

ヨーガスートラ1-48

1-48 ṛtambharā tatra prajñā
ऋतम्भरा तत्र प्रज्ञा॥४८॥
(内面の清澄の中で)真理のみを保有したそこに真の智恵(直観智)がある
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ṛtambharā ऋतंभरा  完全な真実。真理のみを保有し僅かな偽りもないこと。

命そのものが純粋性を取り戻したように内面が清澄になり至福を体験し真理を保有したそこに智恵がある。
ここで言う智恵は直観智であり知識とは異なります。自分が思う、信じている姿ではなく本当の姿を深く観ること。無伺定の極致において真我に還り清澄が生ずる過程で得た智恵の説明です。
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(肉体としての自分ではなく)至福を実体験する本当の自分、もしくは命の核が本当の顔を見せた時、そのものに戻った時、内面が本当の意味で清澄である時、無分別の智恵が現れます。
それは、単に自分が観たい希望の姿ではなく、もっと深いところで見つめた純粋な姿です。
真実を一度知ったからと言ってゴールではなく、内面の清澄を保つこと、続けることに意味があることを一緒に記しているように感じます。
私は解脱した、悟ったなどと言葉にすることが愚かであることが容易に理解できます。