ヨーガスートラ1-44

1-44 etayaiva savicārā nirvicārā ca sūkṣmaviṣayā vyākhyātā
एतयैव सविचारा निर्विचारा च सूक्ष्मविषया व्याख्याता॥४४॥
これにより同様に有伺定、無伺定も微細な対象で説明される
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savicārā सविचारा サヴィチャーラー(有伺)
nirvicārā निर्विचारा ニルヴィチャーラー(無伺)
sa 分別 有、nir分別 無
vitarkā粗大なものに対する瞑想、vicārā微細なもに対する瞑想
有伺定と無伺定の説明がされています。
前記の二つの定(有尋定1-42、無尋定1-43)に基づき、それよりも微細な対象に関係する有伺定、無伺定も説明される。対象が微細なものになっていても分別が残れば有伺、固定観念や自我にから離れ、あるがままの姿になれば無伺。
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瞑想の対象が粗大なものから微細なものへと変わっても、名前という固定観念や自我に汚されていない、あるがままの姿を求めることは同じです。
全てのものは常に変化し続けていて、永遠のもの、変わらないものは存在しません。
同じ海がその場に変わらず在るように見えていても一瞬一瞬移り変わっています。
私たちの細胞も日々生まれ変わっていて、同じ「私」に感じていても今先ほどの「私」はもういなくて新しい自分です。
そこにはあたかも昨日と同じ「私」が存在しているように見えますが、刻々と変化し続けています。
「私は成長できていない。」「変わっていない。」と焦り、周りをかき混ぜるのでもなく、「絶対に変わりたくない。」と流れに逆らうエネルギーを無駄に使い波に抗うのでもなく、海の波に自らも委ねていくと波そのものになるような感覚です。
Yogaを練習した後も新しい「私」、朝目覚めたときもフレッシュな「私」に気づきやすい時です。