ヨーガスートラ1-51

1-51 tasyāpi nirodhe sarvanirodhānnirvījaḥ samādhiḥ
तस्यापि निरोधे सर्वनिरोधान्निर्वीजः समाधिः॥५१॥
それを確かに止めてしまった時、全ての解消から無種子三昧
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真智の作用をも終止すると、その分別の記憶を抑止する行も止まり心の作用すべてが止まる。この場合の止滅は離欲によってなされる。
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私たちが日ごろ感じ取りやすい『自分』という存在は、身体であったり心であったりします。ただ、そのどちらも変わりゆくものであり創造性の高い存在です。

永遠である本当の自分とは何か、その変わらない純粋なものに気づくことから始まります。

まずは気づき、そして知るのですが、その知識すら手放すことが求められます。
自分を知るために、周りに投影して比較して感じ取る現象すら放棄します。

純粋な存在、本当の私に出会うには全ての行を手放す必要があるのです。
そこからは、揺るぎない至福と自由に安らぐ状態が訪れるのでしょう。

 

 

 

 

 


ヨーガスートラ1-50

1-50 tajjaḥ saṁskāro’nyasaṁskārapratibandhī
तज्जः संस्कारोऽन्यसंस्कारप्रतिबन्धी॥५०॥
それから生じるサンスカーラは他の記憶を抑止する
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サンスカーラとは色々な経験が潜在意識に残す刻印、残存印象。
何かをきっかけに顕在意識に現れ、心を通して煩悩や感情の種となる。
直観智から生じるサンスカーラsaṁskāra संस्कारः は他の記憶の出現を抑圧し現実に現れるのを抑止する。
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本当の自分、真実、正しい知識に気づく機会は有っても、これまで蓄積した固定観念から抜け出すのは容易ではありません。少しずつ固定観念や悪い癖を手放す練習をすると、その練習を繰り返した記憶が蓄積され、癖がつき、流れが変わり、次に繋がる練習が易しくなるのです。

良い習慣を取り入れ『自分』という意識を手放す努力は、向かい風のように感じて最初は強い負荷がかかります。
でも風に乗れたら早いのかもしれません。

 


ヨーガスートラ1-49

1-49 śrutānumānaprajñābhyāmanyaviṣayā viśeṣārthatvāt
श्रुतानुमानप्रज्ञाभ्यामन्यविषया विशेषार्थत्वात्॥४९॥
伝承や推理の智とは違う領域で格別な意義故
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この直観智は伝承や推理などの知識とは異なる直接の体験でのみ得られる違う領域のものである。

1-49では三昧の境地で現れる直観智を対象の面から傾向や性質を分けている。

この直観に於いてはārtha 自己、セルフ、見る者、が独立し鮮明な姿を輝かせ顕現する。事象の特殊性を対象としている。しかし伝承や推理は、認識するための手段として普遍的な知性が残るため、自己と分別していて直観智とは異なっている。
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教わったことも自らの推測も手放した後に体験する純粋な境地。執着のない姿を想像します。
知っていると思っていることも幾度かの体験も、全ての一部でしかなく部分的に気づいただけに過ぎないのです。
ここでの真理は他者との比較や対立があるような領域ではなく、自分という心身の枠の無い格別な意義を持った智です。

自ら輝くのみ。とても自由な存在です。

 


ヨーガスートラ1-48

1-48 ṛtambharā tatra prajñā
ऋतम्भरा तत्र प्रज्ञा॥४८॥
(内面の清澄の中で)真理のみを保有したそこに真の智恵(直観智)がある
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ṛtambharā ऋतंभरा  完全な真実。真理のみを保有し僅かな偽りもないこと。

命そのものが純粋性を取り戻したように内面が清澄になり至福を体験し真理を保有したそこに智恵がある。
ここで言う智恵は直観智であり知識とは異なります。自分が思う、信じている姿ではなく本当の姿を深く観ること。無伺定の極致において真我に還り清澄が生ずる過程で得た智恵の説明です。
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(肉体としての自分ではなく)至福を実体験する本当の自分、もしくは命の核が本当の顔を見せた時、そのものに戻った時、内面が本当の意味で清澄である時、無分別の智恵が現れます。
それは、単に自分が観たい希望の姿ではなく、もっと深いところで見つめた純粋な姿です。
真実を一度知ったからと言ってゴールではなく、内面の清澄を保つこと、続けることに意味があることを一緒に記しているように感じます。
私は解脱した、悟ったなどと言葉にすることが愚かであることが容易に理解できます。

 

 

 


ヨーガスートラ1-47

1-47 nirvicāravaiśāradye’dhyātmaprasādaḥ
निर्विचारवैशारद्येऽध्यात्मप्रसादः॥४७॥
無伺定の極致において真我に還り清澄が生ずる
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無伺定の修習を重ね、それが極まるとブッディが浄化される。
ブッディはプラクリティから生じたものでサットヴァ、ラジャス、タマスの3つのグナから成る。他のグナの働きを抑える形でサットヴァが優勢になり常に不動な状態を保つようになると真我に還る道をたどり内面に清澄が生ずる。
内面の清澄についてはこの後の経文で説明が為されます。
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私たちが観ている世界はすべて遊びや演劇、夢の世界のように例えられることがあります。

喜び、静けさ、騒がしさ、苦しみ、落ち込みなど、様々な心の色を体験しますが、全てはサットヴァ (sattva)、ラジャス(rajas)、タマス(tamas)という3つのグナ(エネルギーの要素)がバランスを替えながら見せる芸術ですから、その一瞬に対して必要以上に落ち込み、苦しみ、悔やんだりせず、その波の動きに気づく練習と思い、サットヴァの優位な状態が来たらそれを少しずつ保持するよう、また静けさに身を委ねるよう最善の努力をするのが良いのでしょう。
人生全てが芸術だと捉えられたとき、喜び、静けさ、騒がしさ、苦しみ、落ち込みなどのそれぞれはどれが美しくどれが醜いというものではないことに気づきます。
それは沢山の色の入った色鉛筆を貰ったあの瞬間や、ピアノと初めて出逢い音を奏でた瞬間のようなトキメキと似ていて、潜在的な力や可能性を私たちに感じさせてくれます。
どの色も音も奥深いハーモニーを奏でるための一員として、欠けてはいけないものだと教えてくれている気がします。

この芸術を味わっている過程で静けさに自然と吸収されていくのでしょう。

 


ヨーガスートラ1-46

1-46 tā eva savījaḥ samādhiḥ
ता एव सवीजः समाधिः॥४६॥
これら(四種)はまさしく有種子三昧
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ここでは、有尋定、無尋定、有伺定、無伺定(1-42~1-44)の四種が有種子三昧であることを説明している。
savījaḥ सबीजः  認識や瞑想の目的となる客体を持つ、(粗大もしくは微細な)瞑想の対象をもつ、サンスカーラ(輪廻の世界の束縛の因子、次の行為の種子)
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ありのままに見ることが難しいのは、「私」という自分意識が有るからですが、まずはその存在に自らが気づくことが第一歩です。
「私」「私の」「私が」…これが現れるとたちまちありのままには見られない状況になります。
その意識に早く気づくようになり、いつも安心して手放せること、思考そのものをただ見つめること、その繰り返しの練習あるのみです。
例えば『難しいポーズを極めるのがYoga』だという考えと、『難しいポーズはYogaではない』という考えの二つは、実はどちらが正しいというわけでもなく、やはり「私」の考えの方が正しいと思い主張しようとしてしまう時の自分の弱さや癖、サンスカーラに気づき、手放すべきことを教わるきっかけを頂いているだけなのでしょう。


ヨーガスートラ1-45

1-45 sūkṣmaviṣayatvaṁ cāliṅgaparyavasānam
सूक्ष्मविषयत्वं चालिङ्गपर्यवसानम्॥४५॥
微細な対象はさらに万物の根源である自性に極まる
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ここでは1-44の微細な対象を説明しています。

aliṅga अलिङ्ग  無没の意。見られるものの姿がない。象徴の未顕現状態のプラクリティを指す。

微細な対象というのはサーンキャ哲学で説くタンマートラ、アハンカーラ、ブッディ、プラクリティのこと。

微細な対象への瞑想はプルシャには及ばず、ここには入らないことを述べている。
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見たもの、聞いたもの、触れたもの、経験とされる先入観や、自分の考えという名の固定観念、今まで聞いた名前、レッテル、思い込み、条件付けに飲み込まれていないか振り返る習慣をつけていきたいです。

学んだこと、覚えたことも少しずつ手放して「私の」という浅はかな考えから全てを自由にしていく過程はとても難しいものです。
Yogaを伝えるとき「私の思うYoga」「私の感じるYoga」「私の考えるYoga」を話さなければいけなくて自分に対しても矛盾を感じることがあるのですが、この心身を通して何か少しでも伝えられるのであれば、誤解を恐れず言葉やAsana(Yogaの姿勢、ポーズ)を道具にしながらシェアし続けていきたいです。
表現する努力を放棄せず工夫していると、その時、自分の心身を頂き生を受けたことに嬉しさが込み上げるような気持ちになります。
それぞれに個性がある理由が全身で実感できます。

 

 

 


ヨーガスートラ1-44

1-44 etayaiva savicārā nirvicārā ca sūkṣmaviṣayā vyākhyātā
एतयैव सविचारा निर्विचारा च सूक्ष्मविषया व्याख्याता॥४४॥
これにより同様に有伺定、無伺定も微細な対象で説明される
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savicārā सविचारा サヴィチャーラー(有伺)
nirvicārā निर्विचारा ニルヴィチャーラー(無伺)
sa 分別 有、nir分別 無
vitarkā粗大なものに対する瞑想、vicārā微細なもに対する瞑想
有伺定と無伺定の説明がされています。
前記の二つの定(有尋定1-42、無尋定1-43)に基づき、それよりも微細な対象に関係する有伺定、無伺定も説明される。対象が微細なものになっていても分別が残れば有伺、固定観念や自我にから離れ、あるがままの姿になれば無伺。
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瞑想の対象が粗大なものから微細なものへと変わっても、名前という固定観念や自我に汚されていない、あるがままの姿を求めることは同じです。
全てのものは常に変化し続けていて、永遠のもの、変わらないものは存在しません。
同じ海がその場に変わらず在るように見えていても一瞬一瞬移り変わっています。
私たちの細胞も日々生まれ変わっていて、同じ「私」に感じていても今先ほどの「私」はもういなくて新しい自分です。
そこにはあたかも昨日と同じ「私」が存在しているように見えますが、刻々と変化し続けています。
「私は成長できていない。」「変わっていない。」と焦り、周りをかき混ぜるのでもなく、「絶対に変わりたくない。」と流れに逆らうエネルギーを無駄に使い波に抗うのでもなく、海の波に自らも委ねていくと波そのものになるような感覚です。
Yogaを練習した後も新しい「私」、朝目覚めたときもフレッシュな「私」に気づきやすい時です。


ヨーガスートラ1-43

1-43 smṛtipariśuddhau svarūpaśūnyevārthamātranirbhāsā nirvitarkā
स्मृतिपरिशुद्धौ स्वरूपशून्येवार्थमात्रनिर्भासा निर्वितर्का॥४३॥
憶念が浄化されるとそれ自体(心)は空無のようになり対象だけが輝くのが無尋定
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nirvitarkā निर्वितर्का ニルヴィタルカー(無尋)

名前、意味、知識が分別により執着する憶念すら拭い去り浄化されると、心も無くなってしまったかのようになる。分別知のない定を説明しています。
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思い出や見たこと聞いたこと、何かで読んだもの、自分の推測、この様な経験とされる記憶が浄化されるというのは全てを忘れてしまうのではありません。

記憶や経験をベールとして『今』を見るのとそのベールを外しありのままを見るのは選べるのです。
毎日の生活も私たちはその名前と記憶に基づいて認識をします。
この世界のことも、自分のことも、生まれ変わった存在として新鮮に感じ、過去の思い込みという束縛から自由になるために、名前に過度に振り回されないこと、先入観なく新しい気持ちで全てと出会うこと、そのような毎日はとても色鮮やかです。

 

 


ヨーガスートラ1-42

1-42 śabdārthajñānavikalpaiḥ saṅkīrṇā savitarkā samāpattiḥ
शब्दार्थज्ञानविकल्पैः सङ्कीर्णा  समापत्तिः॥४२॥
それらの内で名前、意味、知識が分別により混じっているのが有尋定
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savitarkā सवितर्कासवितर् サヴィタルカー(有尋)
samāpattiḥ  समापत्तिः サーマパッティ(定)

1-9の分別知と尋は同じです。
肉体次元での物を表す語(名称)とその語が示す客体(意味)、それに関する知(観念、知識)とを区別する分別知が混在しているものは有尋定だという説明です。
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名前と意味と知識が同一視されることで、曖昧な理解をされたり誤解の原因になります。呼び名と、過去に蓄積したそのものに対する知識は、いま目の前にみる対象とは同じにはならないのです。

この混乱は、自分に対しても常に起こっています。
自己の本質を見誤り、誤解を招いている状態から抜け出ることが必要です。

言葉は幅広く使われる道具であり、人それぞれの過去の蓄積により受け止め方も違うため、伝えるのはとても大変なことではあります。本来の意味に近づく努力が大切で、間違った認識や記憶への限定を解いていくのはとても優しい行いだと感じます。

Yogaを伝えたい人々によって口伝でこの時代まで繋がってきた奇跡がとても美しいです。

 

 

 


ヨーガスートラ1-41

1-41 kṣīṇavṛtterabhijātasyeva maṇergrahītṛgrahaṇagrāhyeṣu tatsthatadañjanatā samāpattiḥ
क्षीणवृत्तेरभिजातस्येव मणेर्ग्रहीतृग्रहणग्राह्येषु तत्स्थतदञ्जनता समापत्तिः॥४१॥
尽き果てた活動(の後で)あたかも高貴な宝石の(ように)認識者(真我)・認識(心理器官)・認識対象においてその染色がsamāpattiḥ समापत्तिःサマーパッティ 定
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活動が消え去った心は美しい宝石のように清澄になり、傍らに置かれた色をそのまま映しこむようにそれに染まる。これが定とよばれる。

三昧とは同義語とされます。内容は違わないが三昧とは少しニュアンスが違うと考えられますが主旨は変わりません。三昧は3-3に記されています。
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私たちも周りの状況や周りの声により様々な色に染まり、また心に印された傷により物事にベールをかけた状態でとらえ、過去の記憶を元に『今』を装飾しています。

透き通った心で『今』を感じたとき世界はどのように見えるのでしょうか。

自分を濁りの無い透き通った宝石にしてくれるのは何か、識別する力をYogaと共に学びます。

 

 

 


ヨーガスートラ1-40

1-40 paramāṇuparamamahattvānto’sya vaśīkāraḥ
परमाणुपरममहत्त्वान्तोऽस्य वशीकारः॥४०॥
その人の支配力は極微、極大の全体にまで及ぶ
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今までの方法で心が安定した人は、極微(極小の微粒子、微細な要素タンマートラと呼ぶ素粒子)にも、極大(宇宙の全体)にも支配力が生まれる。

全てのものを知ることができる力を得ると説明されています。
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Yogaでは自分を知ることが大切だとされますが、自分の能力は、どのような自己評価をしているかによって大きく変動します。

本当は無限の存在ですが自分の限界を自分で仕切り「私はこんな理由が有って、これはできない!」と誤った評価をしたり勝手に自分に対して小さな世界を限定しています。

練習では実践の繰り返しによって無限の可能性を忘れていた自分に気づき、勝手に決めつけてしまった自己評価の見直しが必要になります。

人生そのものが大きく変わってしまうことは脳にも恐怖を感じますし、口では変わりたいと言っていたとしても、今までの習慣や考え方のパターンを崩されるような動きや流れにはプレッシャーを感じるものです。

体も心もその檻を飛び出すことができます。

 


ヨーガスートラ1-39

1-39 yathābhimatadhyānādvā
यथाभिमतध्यानाद्वा॥३९॥
好みの瞑想をしても(心の安定を得られる)
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心を安定させる七つめの方法です。
自分にとって好ましいものに瞑想をしても心の安定を得られる。
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最終的に、瞑想にはどのような対象を選んでも良いとされています。

まずは、神聖な対象、サットヴァに導いてくれる対象を選んでみるとよいでしょう。
一点に集中することを継続させて考え事など雑多なことを排除していきます。続けてみると心があちらこちらに動いて様々な考え事をしていることに気づきます。

瞑想は毎日繰り返し行うことで心を集中する練習になり、考え事に振り回されていることに気づける自分へと導いてくれます。

一点に集中することが保持され拡大され、いつの日か心や【私】に対する考えに変化が生まれるでしょう。

 


ヨーガスートラ1-38

1-38 svapnanidrājñānālambanaṁ vā
स्वप्ननिद्राज्ञानालम्बनं वा॥३८॥
夢、眠りの知識に基づいても
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心を安定させる六つめの方法です。
夢と睡眠からの知識によっても心は清澄になる。

美しく威厳のある神のお姿を夢みたとき、そのお姿や教えに瞑想する。

または穏やかで安らかな眠りのあと、心地良い満ち足りた感覚や気分で目覚め、それに瞑想する。

無意識を対象に瞑想するという教えです。
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宮古島や屋久島で行っているヨガ合宿では、毎日同じ時間に皆が集まります。

朝6時から講座が始まるため、皆さん5:55にスクールに集まってくださいます。講座を担当する先生たちは、いつの頃か4:44に起きるという方が多くなっています。

毎日、同じ時間に起きて一日を純粋な気持ちで始める。
澄み切った空気に包まれ、まだ明けきらない空には優しい月と控えめに輝く星々が見えます。日によってハイビスカスの花が出迎えてくれたり、雨の香りで一日は始まります。

貴重な新しい経験が始まるという期待に満ちた朝です。

今晩は、皆さんはどのような夢を見て、明日の朝はどのような気持ちで目覚めるでしょう。

優しい眠りを迎えるために、呼吸をいつもよりゆっくりとしてみましょう。

 


ヨーガスートラ1-37

1-37 vītarāgaviṣayaṁ vā cittam
वीतरागविषयं वा चित्तम्॥३७॥
愛着を離れた心はまた
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五つめの方法です。
欲望を離れた聖者の心を瞑想の対象にすることも心を不動にさせる。
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清らかな対象、清らかな心を思念の対象とすることは私たちの心を常に安定させてくれます。

どのようなものが自分を刺激しているのか、執着を生むのか、またどのような物を【私の my】と思い込んでいるのか、自分との対話をしていきます。

【私】とはどのようなところに囚われた人間なのでしょうか。

【私の my】ものだと思って抱え込んでいる荷物は、本当の私を覆い隠す雨雲。

抱えていても構わないけれど、その時は本来の輝きが見えず不安になってしまうかもしれません。

けれどもまた、そのような心の状態であっても、本当の自分は雨雲の後ろ側で輝き続けているから大丈夫です。

 


ヨーガスートラ1-36

1-36 viśokā vā jyotiṣmatī
विशोका वा ज्योतिष्मती॥३६॥
まさしくその憂いのない光に満ちても
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四つめの方法です。憂いなき光の効用が記されています。

ハートの空間、心の源泉に瞑想。発光をおびた感覚的な現象が現れることがあれば意を不動にする。もしくはその存在に思いを凝らす。
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憂いのない光に瞑想するというのは少し困難に感じるかもしれません。

何かに集中しているとき心から浮かんでくる心配、考え事、悩みを手放すようにしていくと、心は「ラジャス rajas 激質」から「サットヴァ sattva 純質」に向かいます。

心の汚れを少しずつ掃除するように、苦しみを取り去っていくように、もしくは離れていくことに安心できれば手放します。

その過程で、今まで覚知していなかった憂いのない光との出逢いがあるでしょう。

 

 


ヨーガスートラ1-35

1-35 viṣayavatī vā pravṛttirutpannā manasaḥ sthitinibandhinī
विषयवती वा प्रवृत्तिरुत्पन्ना मनसः स्थितिनिबन्धिनी॥३५॥
或いは対象に満ちた傾倒が現れて心の安定を保持
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傾倒の効果が記されています。心が安定する実践の三つめの説明です。

穢れなき対象に心が満たされ傾倒、没頭することにより心の安定を保持することができ、心は清澄になる。
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修行者は感覚器官を集中させるとき特殊感覚が生じ、この経験は、本から学ぶより師から伺うよりも強く心を不動にさせる効果があるという。

Everything is practice.

一歩進む、その美しい勇気をいつも応援しています。


ヨーガスートラ1-34

1-34 pracchardanavidhāraṇābhyāṁ vā prāṇasya
प्रच्छर्दनविधारणाभ्यां वा प्राणस्य॥३४॥
呼気と止息とで気の方からでも
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吐く息、プラーナの吐き出す動きと息を止め保持する動き、このような気づきを伴う調気からでも心は清澄になる。

プラーナ(生命力、気)の制御の効用を、心の安定のための二つ目の方法として挙げている。
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感情、心の様子に変化が生まれた瞬間、自分の呼吸はどのようになっているのか気づくようにするとパターンがあることが分かります。

深いゆったりとした呼吸をしながら怒ったり焦ったりすることは寧ろ難しいと思います。

特に吐く息は長くしてみましょう。心のモヤモヤを外に追い出すような気持ちで。

イライラや妬み、不安や苦しい心が現れたときは5分で良いので、まずゆったりした呼吸をしてみます。

ヨーガスートラの中の上記の呼吸は健康状態により指導が必要ですので、まずはゆったりと深呼吸をしましょう。

早い呼吸、浅い呼吸になっている方は三秒から四秒くらいを目安に吐いて(だいたいで大丈夫)自然と入ってくる酸素を身体中に流しているようなイメージをしましょう。

 


ヨーガスートラ1-33

1-33 maitrīkaruṇāmuditopekṣāṇāṁ sukhaduḥkhapuṇyāpuṇyaviṣayāṇāṁ bhāvanātaścittaprasādanam
मैत्रीकरुणामुदितोपेक्षाणां सुखदुःखपुण्यापुण्यविषयाणां भावनातश्चित्तप्रसादनम्॥३३॥
他人の幸福を親しみ、不幸への憐み、徳への喜び、不徳への無関心を抱くことで心の清澄(が得られる)
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maitrī मैत्री 親しみ(慈)

karuṇā करुणा 憐み(悲)

mudit मुदिता 喜び(喜)

upekṣā उपेक्षा 無関心(捨)

心の清澄を得られる方法として四つ挙げられています。

四つの感情は四無量心と呼ばれる。

慈:他人の幸福に親しむ心、悲:他人の不幸を憐れむ心、喜:他人の善行を喜ぶ心、捨:他人の悪行に無関心(憎悪も共感も抱かない)でいる心
_________________________

慈は親しみ。友情に近い感情です。一人ではなく皆で幸せに、嫉妬心を手放し他人の幸せを心から共に喜ぶ。

悲は憐み。他人の不幸を喜ばない。自分の悲しみのように感じ、間違っているのは本人の過ちだとは考えず憐れむ。助け合いたいという気持ち。

喜は喜び。徳を積む人を見たとき焦りや妬みを持ち、相手をどうにか引き下ろそうと考えてしまう時は心が散漫であることに気づける。善い行いをした人を尊敬する。

捨は無関心。悪いことをした人を悪人とみる心を捨てる。冷静な心で平等に見守る。

どれか一つから普段の自分がどのような感情であるか見ていくことも良いですし、感情を顧みる癖をつけることで一点に集中できていない自分に早く気づいて元の道へと戻してあげることもできます。

 

 


ヨーガスートラ1-32

1-32 tatpratiṣedhārthamekatattvābhyāsaḥ
तत्प्रतिषेधार्थमेकतत्त्वाभ्यासः॥३२॥
これらの障碍(心の乱れ)を克服することを目的に、ある一つの事柄を対象として集中する修行がなされるべき
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イーシュヴァラに祈念する方法、もしくは次節からの一つの事柄への集中を促している。

それぞれの気質にあった相応しい方法があり、どの方法をとったとしても到達地点は同じ。ただ、新しい方法を見つけては飛びつき新鮮さに浮つくのではなく、本質を知るためには繰り返すことや地道に続けていくことが大切だとされている。
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目の前に広がっていることを感情を差し挟まず行っていくと、今までの自分では見ることの出来なかった世界が現れてくることがあるのでしょう。

それは、長く続けた人にしか見ることのできない景色なのだと思います。


ヨーガスートラ1-31

1-31 duḥkhadaurmanasyāṅgamejayatvaśvāsapraśvāsā vikṣepasahabhuvaḥ
दुःखदौर्मनस्याङ्गमेजयत्वश्वासप्रश्वासा विक्षेपसहभुवः॥३१॥
(これの障碍には)苦しみ、落胆、四肢の震え、吐息・吸息の乱れが伴って
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四つの症状が九つの障碍(1-30)に伴い発生する。

症状を改善する方法が1-33から1-39 で説明されます。
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Yogaの練習中に色々な感覚や感情が湧き上がってくるのは、とても自然なことです。

喜びと開放感または痛みと不快感を様々なレベルで受け止めることがあります。

時には心身の内側、細胞や遺伝子の中に蓄積されたあらゆる記憶が体内のエネルギーの波に乗り堰を切ったように目の前に溢れ出すことがあるでしょう。

肉体に於いて症状が現れているとき身体も心も苦痛を伴い不安になりますが、そこで自分に何が起こっているのか細部まで覚知する機会になることも稀ではありません。

体験したことが『行い』『考え方』『姿勢』を正しい道へと導いてくれていると気づけたとき、その瞬間は揺るぎない優しさと強さを得ています。

 

 

 

 


ヨーガスートラ1-30

1-30 vyādhistyānasaṁśayapramādālasyāviratibhrāntidarśanālabdhabhūmikatvānavasthitatvāni cittavikṣepāste’ntarāyāḥ
व्याधिस्त्यानसंशयप्रमादालस्याविरतिभ्रान्तिदर्शनालब्धभूमिकत्वानवस्थितत्वानि चित्तविक्षेपास्तेऽन्तरायाः॥३०॥
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Yogaに対する障碍は、病、怠けや無気力、疑いや決断がつかない心、注意散漫や落ち着きのない心、やる気の無さやものぐさな心、不摂生や欲望の強さ、真理と違う主義や誤った見解、準備不足や三昧に入りえない心理状態、不安定や三昧に留まれない心理状態、これらの心の混乱

心の混乱(散乱、迷い)によりYogaの発達を邪魔するものを記している。
またジャパにより克服できる障碍とも理解できる。
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Yogaの道を進むにあたり上記のような壁にぶつかることが有るという説明なのですが、この道を進めばこのような心の迷いにもぶれない安定が得られるのだという力強い表現にも感じます。

どのような崇高なグル(偉大なるマスター)も、このような経験を繰り返し歩み続け、積み上げてこられたのかと思うと少し安心するような気持ちになります。

失敗しても間違っても躓いても少しずつ気づいて、歩みを進められたら良いなぁと思います。

全ての方が平和でありますように。

 

 

 

 


ヨーガスートラ1-29

1-29 tataḥ pratyakcetanādhigamo’pyantarāyābhāvaśca
ततः प्रत्यक्चेतनाधिगमोऽप्यन्तरायाभावश्च॥२९॥
そうすると内観の力を得て、気づきが発揮され、また障害も消滅する
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ジャパの効用(1-28)により心を清めYogaに対する障害や諸条件を取り除いてYogaの道への準備ができる。

イーシュヴァラへの祈念やoṃのジャパによって本来の自己を知る。

自己の探究(スヴァーディヤーヤ)は聖典読誦とoṃを唱え意味を深く念想することにより知識がもたらされます。
_________________________

毎日を忙しく過ごされている皆さんは、肉体のレベルでも自分を知ることを難しく感じてしまうかもしれません。

Yogaの時間に身体の内側に目を向けて観察してみることから始めましょう。
まずは今どのような呼吸をしているのか、吸う息と吐く息に耳を澄ましてみます。
「なんだか息苦しいなぁ。」「緊張する・・・」などと思うかもしれません。
ゆっくりと深く吐いて、自然と入ってくる空気を受け止めましょう。

今度は「腰が痛い!」「私って硬いな。」など体の方から素直な声が聞こえてくるかもしれません。
「今日からは大切に扱うから大丈夫だよ。」と体にも声をかけ、安心してもらいましょう。

瞑想では、静かに坐ってみると心がザワザワおしゃべりをしていることに気づきます。
素の自分はあまりにも小さくて頼りなくてフワフワしているように感じます。
それでも焦ったり不安に思ったりせず、この時間だけでも『肩書』『役割』『分類』『資格』『性別』などを全て手放したような気持ちでシンプルになります。
飾りっ気は有りませんが、自分に対して嘘がない、このシンプルさが自分の芯になると感じます。
心の声と仲良くなれた瞬間でした。

photography by @nemaphotographie
inspired by @ericparephoto


ヨーガスートラ1-28

1-28 tajjapastadarthabhāvanam
तज्जपस्तदर्थभावनम्॥२८॥
その聖音を反復誦唱しその意味を念想し修行すべきである
_________________________

japa जप ジャパ 反復誦唱というのはぶつぶつと低い声でつぶやくように唱える修行。

oṃを唱えることはイーシュヴァラ(神)への祈り。
_________________________

私自身が幼少期から続けている瞑想の一つです。

声に出しても良いし、心の中で唱えても構いません。音に身を委ねる感覚がとても安心感があり集中します。皆さんが信じる神の存在で大丈夫ですので、その神との会話のためのバイブレーションを合わせていると考えるのも良いかと思います。

宮古島では風に揺れる波を眺め、海の音を聞きます。

耳を澄ましてみると、日頃聞き流してしまっていた繊細な音が聞こえて、とても心地よい気分です。
波の音と風の音が共に動いていることに気づき、私もその動きに合わせるように呼吸をします。

自然と共に動くことが、やわらかい人生の在り方だということを思い出させてくれます。

 


ヨーガスートラ1-27

1-27 tasya vācakaḥ praṇavaḥ
तस्य वाचकः प्रणवः॥२७॥
その名称(イーシュヴァラの象徴)は聖音である
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聖音=イーシュヴァラ。

全てのものは聖音から生まれ、聖音へと一つに戻って行く。

聖音om ओम् (aum औम्) オーム・アウムは特別なプルシャの象徴、最も神聖でエネルギーの高いもの、宇宙の根源、真音、真言。つまりイーシュヴァラそのもの。
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『過去、現在、未来』『開始、中間、終始』『誕生、心身、死』『目覚め、夢、熟睡』など色々な形で表現されることがあります。

全てを知っている存在であり、宇宙の根源であり、自在神そのもの。

om ओम्が持っている意味、イーシュヴァラそのものと同じ状態に私たちを導いてくれる音です。言葉で言えないような真理を表現する対象として、音が神聖な存在とされているところが、とても好きです。

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ヨーガスートラ1-26

1-26 sa pūrveṣāmapi guruḥ kālenānavacchedāt
पूर्वेषामपि गुरुः कालेनानवच्छेदात्॥२६॥
それは歴代のグルたちにもまたグルであり時間を超越しているから
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sa स それ(イーシュヴァラ)

īśvara ईश्वर イーシュヴァラ 最高のマスター、師、神、至高の存在

guru गुरु グル 叡智のマスター、闇を蹴散らす者

イーシュヴァラはグルたちのグルであるという説明です。
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「私は○○です。」「私とは○○です。」「○○は私のものです。」 が多くなればなるほど、自分自身を限定してしまい苦しむようになります。

自分に対してどのような限定をしているのか振り返ってみましょう。

その限定に落ち着くことが安心だと感じる場合もあり、それがまた執着を生み、心の制御の難しさを感じます。歳を重ねれば重ねるほど『普通』という固定観念が増えますし、耳障りの良い言葉以外、人の意見も聞かなくなる傾向があります。

「この考えこそ私だ!」と頑固にもなってしまいます…。

『私』というものから解放されたグルや、グルたちのグルであるイーシュヴァラに於いては時間という感覚からも解き放たれている訳で、遥か昔からこれから先の未来までも存在し続けているのです。

 


ヨーガスートラ1-25

1-25 tatra niratiśayaṁ sarvajñavījam
तत्र निरतिशयं सर्वज्ञवीजम्॥२५॥
そこには、上に出るものがないほど超絶的な全体生命の智の種子を備えている
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tatra तत् そこ(イーシュヴァラ)は全知である点で上に出るものがいない。
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『私』という思い=『エゴ』が現れることに気づき、常にその出所に気づくこと。

自分に気づきの焦点を向け続けることにより、私たちの観ている現象が全て、ハートの空間から生まれ出てくることに気づきます。

宮古島のビーチでゆらゆらと浮かんでいるのが好きなのですが、海の中では『私』というものが必要なく、大きな海の広がりに溶け込むように、『エゴ』もまた吸収されて純粋さを取り戻せる感覚になります。

私たちもまた個性豊かな花開く存在。

何にも代えられない輝く種をそれぞれが持っているのでしょう。

 

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ヨーガスートラ1-24

1-24 kleśakarmavipākāśayairaparāmṛṣṭaḥ puruṣaviśeṣa īśvaraḥ
क्लेशकर्मविपाकाशयैरपरामृष्टः पुरुषविशेष ईश्वरः॥२४॥
煩悩、行為、(行為の)結果、(記憶の)蓄積によって汚されないプルシャは別格のイーシュヴァラ
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煩悩の形によって行為となり、結果を生み、今までの人生経験からの記憶はまた煩悩を溜め込む。プルシャはこれらとは無縁であり別格である。
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行いがパターン化されていることにも気づかず、同じ道をクルクルと回っているような忙しい毎日の中で、過去を後悔し、未来に不安を感じ、欲望が渦巻き、妄想からの恐怖に怯えていては心身も悲鳴を上げて当然です。

悩みの原因は、煩悩による思い込みからの行為、その結果、間違った行為から生まれた結果の記憶、同じ行程の記憶の上塗り、というループからの妄想です。

いつものパターンに囚われている自分を見つめて、何に執着し、何に嫌悪しているのかに気づき、自我意識を捨て去る勇気を持つのはイーシュヴァラに帰依する小さな第一歩なのではないでしょうか。


ヨーガスートラ1-23

1-23 īśvarapraṇidhānādvā
ईश्वरप्रणिधानाद्वा॥२३॥
最高の師イーシュヴァラへの帰依によってもまた無想三昧へはいれる
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īśvara ईश्वर とはマスター、師、神、至高の存在などと訳されます。

自分という意識を放棄して祈り、帰依することにより正しい道へ進める。
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祈ることは自分という意識を手放す純粋な行いです。

あらゆるものとの出逢いで相手の内に在る光に対して手を合わせる時、祈りの機会を与えられていると感じます。

挨拶をすることはお互いの美しさに対する祈り。

出逢いの瞬間に、そして毎朝の当たり前な挨拶の中にも其々の信じる神様が宿っているのだと思います。


ヨーガスートラ1-22

1-22 mṛdumadhyādhimātratvāttato’pi viśeṣaḥ
मृदुमध्याधिमात्रत्वात्ततोऽपि विशेषः॥२२॥
(修行者にも熱烈さに)弱、中、強があり、(無想三昧への近さにも)差異がある
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衝動と実践とで9種類あり、成就に至るまでの時間にも差異がある。
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練習に対する気持ちには軽いもの、中程度、深く集中したものとあり、またその修練の仕方も同じく3種類。

早くてもゆっくりでも、強くても弱くても、実践者に相応しい方法で、誰にでもYogaはできることが分かります。
到達するところは同じ。

Yogaを学ぶ人々と小さな光を結び付けてくれるような優しく寛大な表現に感じます。

その先には大きく包み込んでくれるような光が存在していると思えます。


ヨーガスートラ1-21

1-21 tīvrasaṁvegānāmāsannaḥ
तीव्रसंवेगानामासन्नः॥२१॥
熱烈な修行者に(無想三昧は)近い
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離欲に対して熱烈な実践者は無想三昧に入るのは間近、完成は早い。
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幼いころから瞑想をすることは当たり前で、「手を合わせること。それだけよ。」と教わってきました。

心が落ち着いて、前向きに過ごしてこれたのはきっとそのおかげで、努力という言葉もとても好きです。

心地よいアーサナや安定した呼吸や瞑想、「できた」という感覚に囚われ、いつもそうであるべきだというところに縛り付けられていることもありました。

少し上手くいかないと焦ったり、「できていない」という状態のレッテルを勝手に貼ってしまう癖もなくなり、バランスが取れてきたのかもしれません。

「できた」という感覚や「心地よい」という感覚、「これをすれば人に認められる」と頑張ってしまうことで新しい執着や苦しみが生まれる場合もあります。

離欲は難しいと思うのと同時に、人は皆どんなに頑張り屋なのだろうと愛おしい気持ちにもなります。

 


ヨーガスートラ1-20

1-20 śraddhāvīryasmṛtisamādhiprajñāpūrvaka itareṣām
श्रद्धावीर्यस्मृतिसमाधिप्रज्ञापूर्वक इतरेषाम्॥२०॥
信念、精進、正念、三昧、叡智に伴い他の(者たちは無想三昧に至る)
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śraddhā श्रद्धा Yogaを理解し確信、自分自身の状態を把握、Yogaを探究する。

vīrya वीर् Yogaへの情熱、Yogaに対する正しい態度、日々精進すること。

smṛti स्मृति Yogaに心をとどめて忘れずに思い起こす、本質をあるがままに留める。

samādhi समाधि ここでは、対象のあるサマーディ、その実践のこと。

prajñā प्रज्ञा 純粋な認識、ありのままに見ること。
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smṛti स्मृति はヨーガスートラの中で他の場所では記憶と訳されていますが、ここでは仏教の修行からの借用とみられるため同じ用語ではありますが、上記のように受け止めています。

身体や心を超えていくためにどのようにしていくかという教えではありますが、まずは身体と心を健やかにしていくYogaを行います。

心が荒れて身体を大きく揺さぶり苦しめていないか、行いと感覚のバランスが偏っていないか、感情が急激に上下しすぎて身体に疲労をもたらしてないか。

正しくYogaができているのかどうか、ありのままに見ることができているのかどうか、心身を超えていくためには準備が必要です。

 

 


ヨーガスートラ1-19

1-19 bhavapratyayo videhaprakṛtilayānām
भवप्रत्ययो विदेहप्रकृतिलयानाम्॥१९॥
生死の想念は、肉体を離れた者も、根本エネルギーに吸収された者も
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再誕の想念が残っている場合、輪廻が繰り返される。
生死の想念に基づく無想三昧は、肉体を離れた精神エネルギーでも、プラクリティの元へ吸収されても繰り返される。

肉体と自分を同一視するのは勿論のこと、自分意識への気づき、真理の覚智までは同じ道の繰り返しであること、輪廻が繰り返されることが記されている。
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上記の二つも神秘的ではありますが、まだこれは正しいYogaの道ではなく、私たちの熟考へのメッセージだと考えられます。

私たちが執着しているものは何でしょうか。

平たく言うと本当の自分の姿を知り、今までの思い込みを完全に捨て去ってからでないと目指す場所ではなく似通った場所に到達してしまうということでしょう。

自由への正しい道にとどまるには一体どうしたら良いのでしょうか。それが次のスートラで解説されています。


ヨーガスートラ1-18

1-18 virāmapratyayābhyāsapūrvaḥ saṁskāraśeṣo’nyaḥ
विरामप्रत्ययाभ्यासपूर्वः संस्कारशेषोऽन्यः॥१८॥
想いの停止の修習をしても経験の記憶が残っているのが他(の三昧)
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anyaḥ अन्यः「他」が指しているのは無想三昧のことで、ここでは無想三昧を説明しています。修習を続けていくとsaṁskāra संस्कार「潜在印象」のみが保存されている状態の無想三昧が経験される。
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この辺りを読んでいるとヨーガスートラでの理想の境地など自分には全く関係のないような遠い世界の話をしているような感覚に襲われる方も多いのではと思います。

聞きなれない言葉の解釈や形而上学的な探究は焦って無理して信じなければと極端に走ったり全てを強引に思い込む必要はありません。

ゴールを急ぐことで劇的な変化を求めてしまいがちですが中庸を保ちながら焦る気持ちや行動を抑え、ゆったり淡々と歩みを進めます。

 

さて、今の社会生活を行いながらの修習はとても大変なものですが、それでもやはり出来ることから少しずつ教えを学んでいきたいです。

私たちは心身を通して「自分」という感覚と過去の記憶データを元に、この世界を識別しています。ありのままの世界を見ることが、とても難しい存在のようです。

その「自分」という感覚と、過去の記憶データのフィルターを外し『今』をありのままに見ることをYogaで練習しています。

「私とはこういう人」だと思っていた「自分」という幻想を解き放って、「こうあるべき」という自分像や、他人が求める「私」への勝手なイメージから、自由に着替えてみても良いのかなと思います。


ヨーガスートラ1-17

1-17 vitarkavicārānandāsmitārūpānugamātsamprajñātaḥ
वितर्कविचारानन्दास्मितारूपानुगमात्सम्प्रज्ञातः॥१७॥
ヴィタルカ・ヴィチャーラ・アーナンダ・アスミターの形態をとるのは有想三昧 (samprajñātaḥ सम्प्रज्ञातः)
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有想三昧の四種類を挙げています。

想念、心の活動の残る三昧。
①vitarka वितर् ヴィタルカ…体感覚レベルの思想、肉体、末梢神経レベル。まだ、煩悩のかけらが現れる状態。瞑想の対象とは一つとなれていない。

②vicārā विचार ヴィチャーラ…中枢神経の反射、精神レベル。ヴィタルカと似ているが、心が静まり少し瞑想が深まった状態。瞑想の対象とは一つになれていない。

③ānanda आनन्द アーナンダ…考えはなくなり穏やかな至福。対象と一つになれた状態。心の深い場所からの歓喜。

④asmitā अस्मिता アスミター…私という観念。肉体やエゴではなく、プルシャを経験する段階。全てがあるがままに観えている経験をするが、プルシャそのものになってはいない。

有想三昧には四種類あり①②③④と段階を経て瞑想は深まっていきます。
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ざわざわとした雑念や煩悩だらけの毎日の中でも、Yogaをすると落ち着きます。
宮古島で青空や星空、エメラルドグリーンの海を眺め静かな時間をとると心の奥深くまで光が届くような気持ちになります。

表面的なことばかりに心奪われて、あれこれ新しいものに手を出しては新しい悩みを作り出し、取り繕うことに時間を奪われてはいないでしょうか。
見せ方ばかりに囚われていると心を失います。

目立たないところ、人に見られていないところでも自分との嘘が無いように心を尽くして時を刻みたいです。

目の前に広がる大自然はいつもそれを示してくれていました。


ヨーガスートラ1-16

1-16 tatparaṁ puruṣakhyāterguṇavaitṛṣṇyam
तत्परं पुरुषख्यातेर्गुणवैतृष्ण्यम्॥१६॥
その最高はプルシャを十分に理解することによりグナに無欲になった時達成する
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究極のvairāgya वैराग्य 離欲(無執着)についての説明です。
その(離欲の)究極とはプルシシャ puruṣa पुरुष と プラクリティの識別の理解(悟り)によりグナ guṇa गुण (全ての現象を構成するエネルギー) に対しても無欲になった時に達成する。

グナは本当の自分プルシャ以外すべて。

人生の上で体験したことも見たことも聞いたことも執着せず拘りが無くなった状態が離欲。グナに対して無欲になった時を究極の離欲だと説明しています。
ここでの考えは、私たちの観ている人生は3つのグナ(サットヴァ sattva・ラジャス rajas・タマス tamas)で構成されたプラクリティで、人生は宇宙のエネルギーであるということも分かります。

全て「自分の」ものという考えは思い込みで、執着であると考えます。

思い込み、幻影から気づき、この肉体、心が「自分の」ものではないこと、「私の」人生ではないこと、プルシャとプラクリティを識別する能力が得られグナに対する離欲に至るときヴァイラーギヤが成立するという説明です。
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毎日の生活の中では色々なことに五感が振り回され惑わされます。

このような識別を、心乱される私たちにYogaはアドバイスしてくれていると思います。

心が揺れてどうしようもないとき、落ち着いて識別します。

過去の経験を頭の中で反芻し思い込まされていないか?
未来をマイナスに想像して自ら不安をつくっていないか?
不変のものがあると思い込んでいないか?
心や体が「自分」だと思っていないか?
「変えない」「変わらない」ということに執着していないか?

少し落ち着いて識別する癖をつけることで思い込みや妄想からの不安や苦しみから解放され自由を少しずつ取り戻せるのではないでしょうか。

 


ヨーガスートラ1-15

1-15 dṛṣṭānuśravikaviṣayavitṛṣṇasya vaśīkārasañjñā vairāgyam
दृष्टानुश्रविकविषयवितृष्णस्य वशीकारसञ्ज्ञा वैराग्यम्॥१५॥
体験したり見たり聞いたりしたどの様な対象にも無欲になり克服した自覚が離欲(無執着)
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vairāgyam वैराग्यम् (離欲)についての説明です。
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過去の経験、または見たもの、聞いただけのものでも心が振り回されてしまい、つい集中の対象を外に求めてしまいます。

それは物であったり人であったり、時には依存してしまうことも。
もし依存しているものがあればそれを手放す練習が必要かもしれません。

ここではvairAgyam वैराग्यम् 離欲(無執着)を説明していますが、意地になって欲望を批判し抑圧する練習を指しているのではなく、少しずつ手放すことや離れることを言っています。

練習の方法でさえ、闘わず心身を優しく扱いながら煩悩を弱め、離欲へと開放されていくYogaらしさが感じられます。

無欲になれているもの、またはまだ執着、依存しているものは何か、自分の中で明らかにしましょう。まずはそこから始まります。

 

 


ヨーガスートラ1-14

1-14
sa tu dīrghakālanairantaryasatkārāsevito dṛḍhabhūmiḥ
स तु दीर्घकालनैरन्तर्यसत्कारासेवितो दृढभूमिः॥१४॥
それはしかし長い期間絶え間なく正しい態度で熱心に行われることで確立される
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『それは』は『その修習は』という意味で、ここではabhyāsaḥはどうあるべきか記されています。
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呼吸のように途切れることなく、鼓動のように熱心に、どのような日でも練習が必要ということです。一日一時間だけ、週に一度だけ、教える時だけ、または習うときだけ、という姿勢ではなく、日々の生活すべてで自分に向き合うことから始まります。

諦めないで繰り返すこと、繰り返し行う中で気づくこと、始めは真似るだけだったり不可能だと思えたとしても純粋さを取り戻せる道だと信じ、今日も練習あるのみ。

 

 


ヨーガスートラ1-13

1-13
tatra sthitau yatno’bhyāsaḥ
अभ्यासवैराग्याभ्यां तन्निरोधः॥१२॥
この中(修習と離欲の2つの内)で誠実に熱心に行なう努力を修習と言う
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ハートの泉、自分の源を探究すること。アーサナや瞑想、呼吸法は予備練習となる。

本当の私とは?本来の私とは?

『純粋な私』を探究し、至福を知れば苦しみから逃れられる。
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至福を知るには、まず小さな幸せに気づくところから。

こんなに美しい自然に囲まれていること、命のあること、笑顔に包まれていること・・・

宮古島にいると、実はもう既に至福の中にいるのでは、と思えます。


ヨーガスートラ1-12

1-12
abhyāsavairāgyābhyāṁ tannirodhaḥ
अभ्यासवैराग्याभ्यां तन्निरोधः॥१२॥
修習(敬愛)と離欲(無執着)の両方で私心を止滅する助けとなる
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心身の求める儚く一時的な満足ではなく平和に至る道を追求する。
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頼りない自分の力だけでは到底難しい道のりです。

人は時に弱いけれど、それでもやはり人の優しさや愛情によって『今』があります


ヨーガスートラ1-11

1-11
anubhūtaviṣayāsampramoṣaḥ smṛtiḥ
अनुभूतविषयासम्प्रमोषः स्मृतिः॥११॥
経験した自分(対象)の記録が喪失せず再生されるのが記憶
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過去に経験した対象が失われていないこと、再生の作用についてをここでは説明しておりサンスカーラ(行)は別で説明されます。
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日々の生活では、心も体もパターン化します。その中から良いパターンを増やすために反復練習を行います。完璧さではなく心身の健やかさを育てるYogaが必要です。

固定観念を振り払い、脳の記録を見直す練習としてアーサナ、呼吸、瞑想があります。


ヨーガスートラ1-10

1-10
abhāvapratyayālambanā vṛttirnidrā
अभावप्रत्ययालम्बना वृत्तिर्निद्रा॥१०॥
心の表層では「何も考えていない」という印象に同化し、重く深く、ゆっくりとした質を帯びた心の作用が睡眠
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夢も見ないほど深い眠りをここでは睡眠と言っています。
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眠れない日は、ご自身の呼吸に耳を澄ましてみてください。
ゆっくりと息を吐いて呼吸を体の末端に流すようなイメージで。

そして問いかけます。
「大好きな人にするのと同じように自分にも優しくしていますか?」


ヨーガスートラ1-09

1-09
śabdajñānānupātī vastuśūnyo vikalpaḥ
शब्दज्ञानानुपाती वस्तुशून्यो विकल्पः॥९॥
言葉や知識に依存した実体が無いものは、想像上の知であり妄想(分別知)である
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先入観、固定観念などの想いや言葉による架空の世界を自らが手放せば消える。
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固定観念に基づいて世の中を見ているだけかもしれないと気づかせてもらったのも宮古島。
「名前」「正誤」「好き嫌い」など過去の自分が貼ったラベルに囚われず新しい道を応援してくれるのも宮古島。
とてもあたたかい人々に、支えられています。


ヨーガスートラ1-08

1-08
viparyayo mithyājñānamatadrūpapratiṣṭham
विपर्ययो मिथ्याज्ञानमतद्रूपप्रतिष्ठम्॥८॥
誤った知識とは、偽りの知識であり、あるがままではない錯覚による
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錯覚は先入観から不適切に当て嵌めてしまうこと、固定観念や記憶により対象の実態に基づいていないとき生まれる。
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ハタ・ヨーガでもアーサナをとり、ただあるがままを見る練習をしている。
上手下手、出来る出来ないという観点ではなく、やるかやらないか。
あるがままを見るのは、意外と難しいことです。

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ヨーガスートラ1-07

1-07
pratyakṣānumānāgamāḥ pramāṇāni
प्रत्यक्षानुमानागमाः प्रमाणानि॥७॥
正しい知識の根拠は、直接の知覚、推理、聖典(聖なる賢者たちの言葉)である
_________________________

正しい知識が三種あることの説明です。
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実は真理を知る機会は多く、それが出逢う人であり目にする言葉であり包み込む自然であり…

全ての存在がそれぞれの形で語る芸術は、人生の意味を愛情深く教えてくれています。


ヨーガスートラ1-06

1-06
pramāṇaviparyayavikalpanidrāsmṛtayaḥ
प्रमाणविपर्ययविकल्पनिद्रास्मृतयः॥६॥
それらは正しい知識、誤った知識、想像上の知、睡眠(無意識)、記憶の五種の心の活動である
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これらは煩悩性にも非煩悩性にもなる。
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執着にも至福にもなる心の種に敏感になり、誤魔化していないか、シンプルでいられているか、気づきを養う。胸の前で手を合わせNamasteと言う時、ハートの空間にお辞儀をする。


ヨーガスートラ1-05

1-05
vṛttayaḥ pañcatayyaḥ kliṣṭā akliṣṭāḥ
वृत्तयः पञ्चतय्यः क्लिष्टा अक्लिष्टाः
心の作用は五種類で、煩悩性にもなり非煩悩性にもなる
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心の活動の種類を五つであること、また其々が煩悩と非煩悩の二通りの作用をすること、十種であると分類。
_________________________

一つの事に対して、受け止め方により自分を苦しめる場合、またその真逆の捉え方をする場合があります。

曇りの日や雨の日の美しさを宮古島で教わった時、凝り固まった自分の感じ方に気づき、見える世界が変わりました。


ヨーガスートラ1-04

1-04
vṛttisārūpyamitaratra
वृत्तिसारूप्यमितरत्र॥४॥
その他のとき(ヨーガの状態以前)心の活動は全体生命を分別視して、個々の現象と名称、形態に囚われている
_________________________

ここでは直訳すると『vṛtti 活動は』『sārūpyam 分別視』『itaratraそれ以外の時』

自分はこの肉体である、エゴを自分自身であると思い込んでいるときを『itaratraそれ以外の時』、つまりヨーガ達成以前の説明の節です。

全体世界と自分というものを分別して心が活動している。

この時、「私はこの体である」という考えに囚われ本当の微細な自分とは出逢えていない。
_________________________

まずは家庭、学校、社会からの条件づけによる自分への固定観念に気づく為、毎日心身との調和の練習。

どんな日も、惜しみ無く愛情を見せてくれる宮古島が大好きです。


ヨーガスートラ1-03

1-03
tadā draṣṭuḥ svarūpe’vasthānam
तदा द्रष्टुः स्वरूपेऽवस्थानम्॥३॥
そのとき観る者は、本来の姿に安らぎを得る
_________________________

自分という存在の所有者ではなく、生命という贈り物を受け取り、この世界を訪問している。
_________________________

私たちが見ている世界は本当は映画の世界のようなものだったら・・・

本当の自分だと思い込んでいる「私」っていう命は本来どのようなものなのでしょう。

宮古島でのYogaは心の洗濯です。
いつか命の素顔と出逢えるはず。


ヨーガスートラ1-02

1-02
yogaścittavṛttinirodhaḥ
योगश्चित्तवृत्तिनिरोधः॥२॥
ヨーガとは心(citta)の作用の止滅
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自分というその仕切りの中での記憶や疑念から解き放たれ、美なるもの、真なるものと一つになること。全ての命は一つと覚智できる状態。
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人生において一見不純物と思われる経験が「Who am I ?」その疑問に目を向けさせ、気づかせる機会を与えてくれていると感じます。

気づく力を授けてくれたのは宮古島の大自然と人々でした。